東野圭吾 祈りの幕が下りる時
東野圭吾の 祈りの幕が下りる時が、阿部寛 松嶋菜々子主演で映画化され、
最近テレビでやっていたので、見てみました。
祈りの幕が下りる時 は、吉川英治文学賞を受賞しており、読み応えのある作品でしたし、映画もよくできていると思いました。
特に、博美(松嶋菜々子)が父親(小日向文世)を楽にさせる為に首を絞めるシーンは、二人の演技が涙を誘いました。
ただ、これは原作を読んだ時も思ったのですが、人間 昔の友達の親の顔なんて
そんなに覚えているものだろうか?ということです。
この物語は、昔 男を作って借金しまくり、家出した博美の母親が歳をとり、無銭飲食をした上、怪我をして介護施設に保護されたことから始まります。
そこに現れたのが、ハウスクリーニングをしている博美の中学時代の友人 押谷道子です。
そして彼女は、施設で、その保護されている女性が博美の母親に間違いないと思い、
今 東京で有名な演出家になっている博美を訪ねるのです。
博美は、「昔自分達を捨て、散々借金を作って自分達を苦しめた母親などに
会いたくない」と 母親にあってやってほしいという道子の頼みを断ります。
仕方ないと思いながらも道子は、博美の演出した舞台をみて帰ろうと思い、そこで
自殺したはずの博美の父親を見つけて声をかけ、結局秘密を守りたい父親に殺されて
しまうのです。
私は、友達の両親の顔などほとんど知りませんし、親しくお付き合いして、比較的
よく知っている人でも、30年もたてば、老けて見た目も随分変わっているでしょう
から、例え似ていると思っても、声をかけることなど とてもできません。
それとも世の中には、人の顔をものすごくよく覚えている人がいるのでしょうか?
まあ、そういう人がいないことには、この小説は成り立ちませんよね。
不自然に感じた読者もいるのでは?と思ってしまいました。